能登前鮨を食べて・・・

昨日は「能登前鮨を自分でにぎるかい」。今年はすでに8回目。
「佐賀のがばいじいちゃんのすし会」を3年前までやっていた。
押上に「春慶寺」という名刹がある。そこで蕎麦会をやった時、
「寿司屋を昔やっていて、今はがんで闘病中だけど、どこかで鮨会をやらせたいじいちゃんがいる」
という話を聞いた。じいちゃんが天真庵にきて、檜のカウンターを見て「寿司屋にあるごたー、立派な檜ばい」
とのたまわりんしゃった。そこから毎月8人限定のすし会をやるようになった。じいちゃんが召される数か月前まで。
まさに「死ぬまでやるばい」という信念を貫かれた。「気骨のすし会」やったな。

じいちゃんが「これおいていくので、使って」という「すしの道具」が遺品になった。
それから、「すしを自分でにぎる」というスタイルになった。
能登の漁師のしんごちゃんから「ブリがとれた」とか「まぐろがあがった」とかいうショートメールが
くると、仲間にショートメールで「〇日にすしかいをやります」と送る。会費5000円。各自日本酒4合瓶持参。
みんな「十間橋太郎」よろしく、能登前であり手前でもある鮨を上手ににぎる。
「味噌をつくる」「梅干しをつくる」「そばを打つ」「すしをにぎる」の会がある。
「令和」の時代は、自分に投資し、自分の人生の精神的文化力を高める時代、かもなんばん。

昨日はマツキヨさんがライブの日に土産にもってきた「白菜の花」をお浸しにして前菜とした。
葉っぱも花を春を告げる「やさしさ」があり、55度くらいでじっくり温泉につかるようにゆで、そばつゆ
に浸す。天真庵流。葉っぱは60度を超えるとビタミンがなくなる。のでそうしている。するとシャキッとした野菜
をサラダにするような歯ごたえと、甘味やうまみを増加させるものと何倍も楽しめる。

明日から「能登時間」
もともとは、椅子や茶箪笥や蕎麦道具をつくってくれた般若くんと、天真庵の玄関の引き戸の金具
や、茶たくとかを作ってくれた角居くんが、金沢の「浅野川画廊」とかで個展をやっていたので、
毎年金沢にいき、それから能登の真脇遺跡にいく、というのがならわしになった。

それから三輪福さんたちが、真脇遺跡の近くに移住し、梅仕事をするようになり、縁あって志賀町に美術館になりそうな家
を見つけて、「能登と東京の二股くらし」になった。
そしてまたそれに続けと、東京から能登に遊びにくる人
が増えてきた。みんなそれぞれのスタイルで旅の「コト」を楽しんでいるみたいだ。車でくる人、飛行機とレンタカーで
くる人、新幹線とレンタカー、新宿から和倉温泉へ深夜バス・・・・千差万別。道もスタイルもいろいろ。

旅も観光会社が企画するようなものから「自分流」なものへ、大きくシフトしている。
「京都の有名な旅館に泊まって、祇園で懐石食べて・・ボリボリ・・・」とかいっている連中は時代おくれだ。
能登の門前あたりは、世界中から「坐禅」にくるような外人がいっぱいいる。やはり精神的文化力を高める時代。

でもみんなには、「真脇遺跡」は必ずいってね、と伝える。日本人の原点がある。「遊山」に真脇遺跡の写真がある。
縄文時代前期から晩期までの約4000年間、人々がソコで住み続けた集落遺跡。縄文人後期に米つくりが始まる。
それまでは、狩猟中心で縄文人たちは狩りをしながら移動して暮らしていた、というのが定説。同じ場所で4000年
というのは、言葉でいうと「ソウ」だけど、スゴイことやと思う。春に藤の花が咲くころ、イルカがやってくる、ことを知っていて、
みんなで協力してとった。それを発酵させ保存する「醸し」の技も取得し、戦争もせず、みなで協力しながら
「持続可能な暮らし」をやっていたのだ。日本人の宗教観や生活観の基本はそのころから続いている。
生き方に迷ったりしたら、真脇遺跡にいって、縄文人に聞いたら、ヒントをくれると思う。
聞こえない声に全身全霊を傾けて聴く。これもこれからの時代のキーワード。
坐禅してみる。坐は、土の上にふたりの人がいる。「自我」と「自己」。いろいろな声が聞こえてくるはずだ。