ちんこの次はちんこば

きのうはちんこ(沈香)、今日は朝、白檀を焚いた。
坐禅をしているような幽玄な境地になる。

昨日は「能登ぶり」をさばいた。今年になって二回目。
今日の夕方は前々から「気骨の鮨会」(自分ですしをにぎる会)。
いいタイミングで、すばらしいブリが飛んできたので、今日はみんなでぶりっこ。
昨日は「そば前」を飲んでいるお客さんには、マグロでいうトロの部分をつまみにだした。

能登の「寒山拾得美術館」の床の間の脇棚に南條先生がかいた「さざえ」の絵が飾ってある。
ふたつのさざえが、哲しているように描かれ、「ときどきは外を見る」と揮毫してある。
まことさざえは、哲学者のように海の岩肌で、禅僧のように鎮座しておられる。
能登のすずあたりは、さざえのふたを「ちんこば」と呼んでいる。
坐禅・・・土の上にふたりの人 ひとりが自己 もうひとりが自我 その真ん中にちんこが鎮座?

今日は日曜日なので、16時閉店  それから「気骨のすし会」

2月は毎日味噌作りがあって、ライブは3月におあずけ。

3月は23日(土曜日)が、上原英里さんの「シャンソン」

30日(土曜日)が、山本ひかりさんの「ボサノバ」

ちんこも焚かず ・・屁もひらず

昔から、こんな落語のネタのような話がある。

昨日、蕎麦のお弟子様が遊びにきた。いったことがないけど、「武相荘」という
白州正子さんとこにいったらしい。お土産に「お香」をいただいた。
白檀と沈香と伽羅が入っていた。今朝は久保さんが作ってくれた「眠る香炉」に
沈香を焚いた。小さな紙に解説が書いてある。

沈香 伝承の香木  純粋な自然の沈香木でございます。
残り香が 心にひびく名香でございます

昔、ある政治家が、「沈香も焚かず屁もひらず」を間違えて、「ちんこも焚かず 屁もひらず」と演説した。
正確には(じんこうもたかず、へもひらず) 沈香を焚いたような芳香もないが、臭いおならもないということから、
「格別よいところもなければ、悪いところもなく、 平凡な日みたいな」のたとえだ。

それだけ「沈香」(じんこう)が日常だったけど、その政治家にとっては、「ちんこ」のほうが日常茶飯だった?

彼女がもっていた白州さんの著書をパラパラとめくってみると、黒田辰秋さんのことが書いてあった。
もともと京都の塗師(ぬし)屋の息子だった彼が、18歳のころ三角堂といういう画廊を通ったら、
飾り窓においてあった河井寛次郎さんの二彩の香炉を見て「ふあーと酔ったような気分になった」らしく、
その一瞬で人生がきまり、木工に励んで、人間国宝にまでなった。
やはり「いい器は先生」である。芸術にはそんな力がある。

「眠る香炉」に沈香を焚く。そんな日常の中に、生涯の一転機となく刹那が香っているかもなんばん。

ちんこもたたず、屁もひらず  こうなると線香の前の写真立てに入ることになる。感謝。

達磨には手足がないけれど・・・

今日から2月。
掛け軸を変えようと思って、いろいろ見ていたら、「隠元」
と書いた箱が見つかった。黄檗禅とインゲン豆を中心にした普茶料理と書を
ひろめた人。普茶料理は「普(あまね)く大衆に茶を施す」という意味で煎茶を飲んだ
後に大皿にのせた料理をみんなで分けて食べる形式で、精進料理の原点みたいなものだ。

かかった隠元和尚の軸には、達磨の絵に、賛が揮毫されている。黄檗三筆というのは、隠元・木庵・即非のことをいう。
三人とも中国人なので、漢字が微妙に日本のものとは違う。でも源流はそっちだ。

今みたいにブーム(中国人や台湾だけ?)になる前に、銀座の骨董屋から買ったものだ。中小企業の経営者の
月給くらいの値段だったけど、今では上場会社の平社員の年収くらいするらしい・・・???

時々知り合いの骨董屋などがきて、「売ってくんない」などといわれるけど、達磨のような顔して「いやだ」と答えている。
でもときどき凡夫の欲ばり精神がでて、売って旅でもしようかな、なんて気持ちになることもある。
まったく西鶴がのたまったように「人間は欲に手足がはえたようなものだ」と思う。

今朝はお香を焚き、煎茶を手向け、しばらく座って達磨の顔とにらめっこ。
手も足も自ら切って、禅の修行をした人の「すごみ」みたいなもんがある。

能登の「寒山拾得美術館」には、木庵の書をかけてある。
「初祖達磨大師」と揮毫している。

今、宅急便でまた「寒ブリ」が届いた。8kのブリがまるごと入った発泡スチロールに
「山城・三輪福より愛をこめて」と書いてある。
能登に先に移住した「そばのお弟子様夫婦」。ふたりとも能登の顔になりつつある。
今年も梅林ガールズたちの出番を、梅たちが華憐な花を咲かせながら待っている。