論語とそろばん

渋沢栄一翁が唱えた言葉。思想も大事だし、背反するようなそろばんも大事。
やはり「バランス」というか「中庸」が大事、ちゅうことか。
原理原則に縛られると窮屈だし、金銭感覚のこわれたのはアカンし、
けっこう「生きていく」は難しい。

昨日は24年くらい続く「論語の会」 今年は「孝経」を勉強する。
「論語読みの論語知らず」という名言があるけど、24年もやっていると、
それが「けだし名言」であることが、体でわかる。一種「さとり」に近い?。

「孝経」いうのは、とある儒者が孔子の言動をしるしたという中国の経書七経のひとつらしい。 儒教の根本理念である「孝」に
ついて書いてある。「親孝行」の孝。昨日は「親を啓するこころ」の大切さを勉強した。ぼくはいつものように、机には座らず、
厨房の中で典座(てんぞ  お寺のまかない係 寒山拾得の拾得(じゅっとく))のように、蕎麦会の準備をしながら、蕎麦焼酎の
「花」を片手に講義を左耳で聞いていた。

この会のメンバーはアラカンいうより、団塊の世代に近い世代。まだ親が存命だったり、子供が巣立ちしたりする
「中間」というか触媒みたいな役割の世代だ。親が自分を育てたようにしか、子供を育てることができないけど、
はたしてそこに「敬」が存在するやいなや・・・・それぞれが胸に手をあてながら内観する、そんな一刻だった。

昨日は、「能登ぶり」のアラと大根で「ぶりだいこん」をつくった。
少し食も酒も弱くなった仲間たちが、ひさしぶりに健啖家よろしく、ぶりだいこん、投じ蕎麦、の鍋を
空にした。「論語とぶり」か?この一週間で8kのぶりをアラまで食べつくした。寒ブリのうまいのは、
寒い冬の海を泳ぐブリの生命力にふれるからだ。「ぶりかい」をやると、春が待ち遠しくなる。

今日は今年最後の「深谷ネギ」が届く。親友のM(一度聞くと、ぜったいわすれない名前)。
残りのブリ大根に、深谷ネギを刻んで投げ入れる。海と大地の生命力がしみる。
MはIT企業と農業法人の社長を兼務する。昨日メールがきて、「今晩、魯山人の夢を見たら、
小福茶碗を買わせていただきます」とのこと。

お茶の味、うまさ、というのも実は「生命力」だ。お点前とか、お茶の歴史云々・・・など
ある意味形式も大事だけど、根底にはこの幽玄なる力がないと、砂上の楼閣みたいなものだ。
朝まずめに起きて茶を飲み、土を耕し、陽が沈むころ家にかえり、酒を飲む。幸せな一刻を
知る人間の自由さに敬服。

今日は「書の会」
明日は「おんなかっぽれ」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です