気骨の鮨会

今日は日曜日なので、営業は16時まで。
それから準備をして、「気骨の鮨会」。大型新人が3人参加する。
そもそも、この会は、近くの春慶寺でそば会をやって、そのままベトナムでそば会
を縁をいただいたりしたころ、その寺にときどきくる「佐賀のがばいじいちゃん」が発端。

そのじいちゃんは高校を中退して昭和30年代に東京に家出同然のようにきた。
東京駅についた時は、わずかな小銭しか残っていなく、渋谷の寿司屋に住み込みで働くようになる。
そして5年くらい修行した後、渋谷で屋台を引きながら、寿司とか魚料理の腕を磨き、5年後に
渋谷にお店を持った。還暦を過ぎ、奥様と長野で無農薬のりんごをつくりながら、東京と伊那谷の
「二股暮らし」をやっていた。国貞雅子の歌ではないが♪ともに白髪がはえたころ あなたが先に逝きました・・
で奥様に先立たれ、ご自分もガンになって東京で娘家族と暮らしながら、闘病をしていた。

そんな時「どこかで死ぬまで鮨をにぎりたい」という声なき声を聴き、「天真庵でやりませんか」となった。
月に一度、カウンター8人限定。酒各自4合瓶持ち込み。会費8000円。2時間で終わり。
そんな会だった。一昨年一月に76歳で旅立つ直前まで2年間続いた。すべて満席やった。そんな会。

じいちゃんが逝って、寿司の道具が天真庵にのこった。久保さんが、絵志野の四方皿と、志野・黄瀬戸の醤油皿を焼いてくれ、
般若くんが木曾の檜でまな板をつくってくれた。そのころ近所にあった鍛冶屋みたいなじいちゃんに柳包丁と出刃をつくって
もらった。その道の一流のひとたちが、その道に具るに十分なすばらしい道具をつくってくれた。

そしたら、ぶんかんのなつきくんが島原に移住したり、三輪福さんたちが能登に移住したりして、
その地で「蕎麦会」をやるようになった。どちらも魚がおいしいとこなので、すし道具ももっていき、「すし会」
もやるようになった。そのころまたどこからか声が聞こえてきて「気骨の鮨会を天真庵で継承したら・・・」みたいに
なって今にいたる。ただし、この会は「自分で鮨がにぎれるようになる会」で、そんなこころざしをもった人
のみ参加資格がある。おんなそばもん(ぼくのそばのお弟子様)や梅林ガールズ(梅仕事なかま)に限って、静かに
潜航しながらやってきたけど、急に今年は増えて、来月3日も新人さんふたりが参加することになった。
今年は「すしのお弟子様がそばのお弟子さまより多くなったりして・・・そんな奇妙キテレツなことが、おきたりする時代かもなんばん。」

明日は「卵かけごはん」
寿司屋と蕎麦屋の共通点は「卵焼き」がうまい。特に、八郷の「暮らしの実験室」の卵は日本一。
もうひとつの共通点は、「香りを楽しむ」。お魚も海にいた時の「残り香」がたまらなく美味い。そばも手繰った時のそばの香りが
最高。

今朝そばを打っていたらラジオで能をやっていて、今日は観世流の「東北(とうぼく)」だった。
かの恋多き女性歌人の和泉式部の霊が自らが愛した東北院の「軒端の梅」と 和歌の徳について語り舞う、梅の花の妖精のような
物語。あまりにいいので、蕎麦を打つ手をとめて聞きほれた。梅の香りもいいね。風薫る五月もまたよし。