延岡

来週は延岡にいくことになった。

幼きころ、夏休みになると日豊線の「フェニックス」とかいう電車(みんな汽車といっていた)
にのって、おじいちゃんおばあちゃんのいる延岡にいった。小倉までは鹿児島本線、そこから日豊本線になる
時、進行方向が変わる。生来の方向音痴のせいもあり、なぜ途中で前後がかわるのかがわからなかった。
途中大分あたりになると、窓に木々が迫ってきて、まるでターザンの世界を走っている感が子供なりの旅愁だった。
大分の佐伯につくと「つぎはのべおか」というアナウンスがある。心臓がどきどき時めいてくるのだが、その一駅
が、たぶん一時間くらいかかって、待ち疲れて、着いた時は夢の中、というのがならわしになっていたように記憶する。

タクシーで「北小路」までいく。父と母の実家は歩いて5分。
父の父は、延岡では名にしおう植木職人だった。今でも彼がつくった庭があちこちに残っている。
「バカでも金持ちが一等賞」というのが口ぐせだったけど、ただ金持ちというだけの家の庭はつくらなかった。
その家にいき、床の間(とくにそこにかけてある掛け軸を見てきめていたそうだ。でもほんとうは、その人を見て
決めていたふしもある)。

おふくろの実家は魚屋。宇和島で魚の加工工場を営んでいたじいちゃんが、事業にいきずまり、妻と5人の子供
を連れて、四国から九州に渡った。「へんこつ」「気骨」というのでは、植木屋と魚屋、甲乙つけがたい。
そして植木職人のじいさんが一仕事終えて、職人たちと打ち上げなんかをやる時に
御用達にしていて、おふくろが魚を届けていた。それ目利き?だったじいさんが「よし」
と気にいり、お見合いさせて昭和30年に結婚し、次の年の昨日、不詳野村南九がこの世に登場する、というお話。

簡単な初七日を家でやった。掛け軸は、足利紫山老子の「古松談般若」。
102歳まで生きた老師の「古い松(自然に生きてきたもの)は、お経みたいなもんや、という禅語」軸を
米寿の時におくったものだ。床の間には、久保さんの鳴海織部の花器に、近所の友人の寺の境内
にあった薄(すすき)をちょうだいして手向けた。父の好物だった「よこわ」(本まぐろの幼魚)を近所の魚屋から調達し、
自前の包丁でさばき、同じく久保さんの織部の向こう付に飾り梅醤油(青梅をかえしにつける)をつけ、剣菱で献杯。
植木職人と魚屋の先祖の「血」が、間違いなく自分の中に流れているような気がする。

延岡への里帰りが、ぼくの旅の原点のような気がする。延岡弁に「よだきい」というのがある。
直訳すると「きつい。しんどい。」という意味。でもほんとうは「無為自然」感がただよう。
こちらも直訳すると、「なにもしない」ニュアンスがあるが、無為自然というのは、運任、つまり
自然のなるゆきにまかせる、みたいなことか。「ただ生きる」。それ以上の「てにおは」や、名利など不必要である。

旅は哲。「鉄の街」と呼ばれた北九州からの旅はまだ途中である。

秋は旅がいい。酒もうまいし、風景もいいし、歌を歌い聴きたくもなる。

22日(土) ボサノヴァライブ 秋の光

演奏:山本ひかり(歌・ギター)

19時開場 19時半開演 ¥3,500(お酒・肴・蕎麦・珈琲・付き)

28日(金) 平魚泳とコペコペカナオの一家で里帰りツアー

演奏:平魚泳(唄・笛・ウクレレなど)・コペコペカナオ(唄・ウクレレ・タイコなど)

19時開場 19時半開演 ¥3,500(お酒・肴・蕎麦・珈琲・付き)

今日は「英語でそば会」の予定だったけど、台風のため金曜日に延期。
「満つまめ」は中止。

木曜日は「焙煎塾」 夜は「おとこかっぽれ」

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