これからはIHがいいかもなんばん

先週の木曜日に「父危篤」の連絡を受け、金曜日の朝イチの新幹線で
帰福。錦糸町から品川までJR、それから小倉まで新幹線(一番ホームにて、かしわうどんを食べ   鹿児島本線で東郷駅)
で、正午前につく。ずいぶんと新幹線のスピードもアップしたし、つなぎもよくなった。)

「週末まではもたない」という医師の言葉どおり、ベッドの上の父は、ごはんを食べず、点滴したまま、顎呼吸をし、まさに最終末、といった感じやった。
ガダルカナルで生き残り、30年前に動脈瘤の大手術をし、その手術でつないだふたつの人工動脈を
92の秋と今年の初めにカテーテル手術にて交換。まさに不死身な93歳も、大往生の時を迎えたようだ。

医師の宣告を無視したように、週末を終末にしなかった。甥っ子たち3人もそろい、お別れをしよう、
みたいなフンイキになった。近くのコンビニにいき、杯をキャップにしたワンカップ月桂冠をふたつ買った。
病院にバレルとうるさいので、アル中のおっさんよろしく、緑のシールをはずし、そっと病室に・・・
そして、ティッシュに酒を湿らせ、父の乾いた口に入れる。目をカッと見開き、「もう一杯」
という。ので、三々九度みたいに、三度飲ませた。見ようによっては、虐待やけど、本人の顔は
恵比須顔になり少し赤らんだ。甥っ子たちも、その「お流れをちょうだい」で乾杯。

次の日の朝、婦長さんに「誰が飲んだのですか?」と、テーブルに残っていた一本を発見され、問い詰められた。
「みんなで人生を語りあってプチ送別会を・・」というと、「誤嚥せん程度にしてくださいね」とニッコリいわれた。さすが
九州の人は「酒」に関してはおおらかだ。病院の向かいに我が母校がある。夏の合宿(ぼくは卓球部やった)の時、
先輩たちと先生が合宿所で酒を飲むのがならわしやった。ぼくも無性に飲みたくなったので、そこを抜け出し、「源」(みなもと)
という居酒屋にいき2人で飲んだことを思い出した。ツレのYくんと次の日に、こっぴどくおこられた。
Yもぼくも、その後立命館に入学し、時々河原町の居酒屋で、その時のことを笑いながら飲んだりした。その
「源」はなくなって、カラオケ居酒屋になった。でも天真庵のそばをお願いしているそばやも「みなもと」という。
根っこ(源)は繋がっている。

次の日に父曰く、「ラーメンが食いたか」。「まよわず、すぐ実行」が野村家の家風?でもあるので、
コンビニでニボシラーメン(もちろんインスタント)にお湯をそそぎ、匂いがもれないように、ビニール袋を
二重にして、病室へ・・
汁だけをティッシュに湿らせ、口に入れる。指をOK牧場にして「マイウー」という。これを読んでいる人は
ウソだと思うやろけど、ほんなこったい(本当です。)

次の日、担当の医師が不思議な顔して病室を訪れる。「明日から、ごはんを用意させます」という。これこそウソ
のようなまことの話。水曜日から「ゼリー食」になった。

終末医療の病院は、老人ホームといっしょで、9割が女子?だ。朝になると、隣の病室のおばあちゃんが大きな声で
「私の化粧バッグばもってきて」とおらぶ。看護婦さんが「おばあちゃん、化粧せんでもきれいばい」と答える。
なんとも、戦場みたいな殺伐たるフンイキの病院の中で、クラシック音楽が流れたような風が吹いた。
高齢者社会になり、親の介護や自分たちの老後の不安をあげれば、きりがない。でもやはり「死ぬまで生きられる」
のであり、「毎日が一生」である。ひとりになる母ため、台所にナショナルのIHを買っておいた。
それで梅シロップの梅をジャムにしたり小豆を煮てみた。ある意味、ガスよりよかよかである。
母に「これで料理本でも出したら」と冗談でいうと笑われた。
題名は「クッキングババ」かいな?

今日から通常営業。昨日病院から東郷駅にいき、小倉で「かしわうどん」を食べいなりをおみやにし、安心院(あじむ)ワインを(
買い、それを紙コップでチビチビ(広島過ぎたら空になったので、この表現はあやし?)飲みながら、東京へ。

今日は「英語でそば会」。