崖の上のポニョ

それの舞台になったのが、広島の鞆の浦。
風光明媚な港町。能登の寒山拾得美術館も、最初は「崖っぷちに立つ美術館」
というのが有力候補だった。行政にも頼らず、お客さんや時代におもねらず、いつも
崖っぷちに涼しい顔して立っている、・・そんな美術館があってもおもしろいのではなかろうか?

話がそれた。鞆の浦出身の建築家で「藤井厚二」という建築家がいた。明治生まれで、東京大学の
建築をでて、京大の先生をやった人。夭折で49歳で召されたので、作品は少ない。
京都の大山崎、サントリーのふるさとみたいなところに、「聴竹居」(ちょうちくきょ)というのが残っている。
彼が自邸を、「暮らしの実験室」のようにしてつくった和洋折衷の家。

関東大震災で、壊れた仕様建築を目の当たりにして、「この国にあった建築を」の思いで、
実験的に立てたもの。「イス・テーブルに座る」というのと「畳の部屋」というのは背反する。
その背反を、同じスペース、もしくは襖でしきる、というテーマでしつらえた空間は見事である。
そしてなにより大切にしたのが「気の流れ」。最近の家には、それがまったく感じられない。

お茶はお花の世界でも「立礼」(りゅうれい)というのが今後のテーマ。畳に座ってお茶事などを
やっていると、風流な気分の前に、足がしびれて通風みたいに痛さが体中をふきまくる。
でも、掛け軸、花、絵・・・日本の家は「坐ってみる高さ」におかれてある。それが大きな課題。
京都や江戸も、「昔はちゃんとした料理屋」だったところも、床の間がある部屋にテーブルが並べてあって、
床の間の軸はそのままで、デコボコして、入れ歯で和食をナイフとフォークで食っているような
茶番が日常になってきた。それを日常茶番、という。

「床の間」について藤井さんが残したこんな言葉がある。

床の間では、そこに目を留める人への
啓発のためにふさわしく配置された品物によって
一種の無言劇が演じられている。

聴竹居の床の間には、彼が大好きだった池大雅の書がさりげなく飾られている。
天真庵には大雅はないが、ときどき奥様の玉蘭の軸を掛けてお茶をやることがある。

今日は、
天真庵の二階では「満つまめの会」  夕方は「蕎麦打ち教室」

明日の朝は「卵かけごはん」 夜は「順受の会」
23年目を迎える別名「論語の会」  20周年の記念パティーには、たまちゃんが三味線を弾いてくれた。

火曜日は「書の会」
木曜日が「おとこかっぽれ」

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