坐る 土の上に 人はふたり おんねん

学生時代に大徳寺の近くに住んでいたことがある。
近くの銭湯に、奇妙なおっちゃんがいた。
いつも洗い場で、けったいな体操をしていた。

フルチンで開脚したり、イナバウワ?みたいにそったり・・・チンチンもいっしょにイナバウワしてた。
「おっちゃん何それ?」と一度きいたら、「まっこうほうや」という。
一度そのおっちゃんといっしょに銭湯の後に、居酒屋にいって飲んだことがある。
縄のれんをくぐり、カウンタに並んですわり、いろいろな話をした。
後に彼が著名な茶人であることを知った。そのころ茶にはあまり興味がなかったので、
そのおっちゃんの顔も名前も忘れた。ただあの真向法の姿と、居酒屋で酔って
話してくれたことのみ脳裏に焼き付いている。これも一期一会なんだろう。

おっちゃん曰く、「坐る、ゆうのは、土の上に人がふたつあるやろ。あれは自己と自我やねん。
人間はそのバランスが悪いさかい、ときどき坐って、茶でも飲んで調整するんや。
それを昔からワケーセイジャクいうねん」
なんのこっちゃわからんかったけど、最近自分も茶を入れたり教えたり
していくうちに、その変のことや、和敬静寂いうニュアンスもわかってきたような気がする。

Mくんがくれた坊さんの本に、道元さんの「正法眼蔵」のことが書いてあった。
「仏法をならうということは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり」というのがあった。

その坊様の解説によると、「自己」というのは、一般的にいわれるそれよりも、一歩深入りし、
「底のない智慧と徳を備えている」らしい。
道元さんが悟りの境地とは、自分も他人も区別のない、梅の香りのするような境涯のようなことを、同じ本で
のたもうてていらっしゃる。
どうも、とどのつまりは、お茶などで、どちらが主人であったり、お客であったりするような堺を超え、
自分たちの「天真」(生まれたままの本心)というか底なしの尊いものを発見し、磨く、そんな境地のことをおっしゃられているらしい。

主客も善悪も男女も分け隔てしない両方が、山の木々のように和敬静寂ぜんと調和されている、そんな世界かな。
誰もが自己よりも、自我のほうに傾いているような昨今。ないがしろにされている「自己」に、より深いものを感じた。

「己を知る」というようなメールを友人からいただいて、しばらく考えていたら、そんなところに
迷いこんだ。あまりつきつめると、頭が痛くなるので、今日もおいしいお茶を飲みながら、お茶を
にごしている朝。今日も「梅仕事」。梅の言霊は、産みなさい、新しいことを始めなさい、
ということらしい。そんな時代がきているような気がする。感謝。