昨日は「夏至」だった。太陽の誕生日。
都会にいると、なんでも「お金」が最優先する。お米や魚や野菜を「お金」で買う。
「生きていくのは大変だ」というのも、お金を稼がないと、たつきがたたない、食えない意味のこという。
「おてんとうさまにもうしわけない」と昔の人はよくいった。よくよく考えてみると、
私たちが自分で働いて生きている、というのは大きな勘違い。野菜や果物、魚や動物・・・
私たちの命を紡いでくれているの、は、みなおてんとうさまの恵み。わたしたちは「生かされている」のだ。
お金で買えない大切なものがいっぱいある。夏至とは、そんなことを再認識する日。
畑を耕さない人を「不耕の人」と、ある哲学者のような方がいった。
先週、三重の久保さんちにいって、囲炉裏とか茶道具とか置き床とか掛花とかを
車に積んで能登にいった。
さっそく床の間に備前の掛花をかけ、家の前の小さな庭に自生していた薄を投げ入れた。
黄瀬戸の香炉は、たんぱんの緑が美しく、お香を焚くと、部屋中に凛とした空気が流れる。
座っているだけで、自然と「つながる」意識がはっきりとしてくる。
東京から持っていった鎌倉彫の飾り棚に、織部の抹茶茶碗をのせた。
久保さんが轆轤をひき、それに元東大寺の官長・清水公照さんが、揮毫したものだ。
置き床をその横においたら、そこが床の間になる。裏千家ゆかりの大徳寺の大綱宗彦の「梅の句」の軸
をそこに飾った。
お茶とかお花とか「道」がつくものは、形式が最優先されているようだけど、一番大切な
ものは「自然によりそい」ながら、自然体に調和されていく感覚を身に着ける、ことだと最近思う。
そこの「道」に具わっているから「道具」といい、料理の器と同じで「半分くらい」は、それによってきまる、
と思う。でもそこだけに固執すると「道具自慢」になったりするので見苦しいし、窮屈ではあるが・・。
あくまでこれも自然体がいい。
雨の能登を車で走っていたら、子供を抱いた母猿や、きつねやたぬきたちの小動物と出くわすことが茶飯だ。
(都会にも、人をだますきつねやたぬきはいっぱいいるし、ギャーギャーいってる猿も多い。とくに浅草とか
観光地に)
火曜日は「書の会」だった。この会にくる女性が「この作家、私の遠い親戚」だといって、以前一冊読んだ
(正確には、途中で挫折)した作家の本を、あだっちゃんがもってきてくれた。
「狐笛のかなた」(上橋菜穂子)。
都会にもいるけど、少し遠くになった里山の中に、こんな素晴らしいおとぎ話のようなきっと今でも
繰り広げられているに違いない、と思った。児童文学の賞をとられたみたいだけど、おとなにもこどもにもいい本。
自然や動物は、自分だけでなく、相手も生かし、自分も生きる、という知恵がある。
社会、というやっかいなものを作ってから、われわれは競争意識とかお金が優先し、
「おれがおれが」の世界で煩悶し、共に生きる、という「愛」を忘れてしまったのごとくだ。
こころのバランスを失いかけたら、やはり自然にふれることがいい。
能登と東京の「二股暮らし」を始めて、そんなことをつくづく思う今日このごろ。日々是好日。
今日は「ダメ中」。