晴好雨奇

火曜日が「書をしよう会」で、昨日が「おんなかっぽれ」やった。
どうやら雨季、梅雨になりそうだ。
これまであまり歓迎していなかったけど、梅雨の雨にうたれるたびに「梅」
の実は大きくなる。うっとうしい、ばかりでなく、恵の雨でもある。
いよいよ「梅林ガールズ」たちの旬でもある。実りの梅雨。

書の会の時、カウンターのところに「禅語」の本を置いてあったのを、いずみさんが
「貸してください」というので貸すと、「晴好雨奇」と揮毫した横にかえるが蓮の葉を
傘にしている絵が気に入られ、それに挑戦。なかなかおもしろい作品ができた。
カメラマン、絵描きも参加され、多士済々の文人墨客の会だった。
こういう人たちが集まる場を「サロン」というのだろう。能登もそうしたい。

「晴好雨奇」(せいこううき)
晴れた日もいいけど、雨の日はまた山紫水明の景色に趣がます。昨年の雨の日
は大石学さんの「雨の・・」アルバムを毎日聴いていた。雨の日の寂寥感は
いいようもなく寂しい。でもその一滴の中に閉じ込こめられた感は、なかなか風流でもある。
晴れてよし 曇りてよし 富士の山 というのもある。泰然自若そのもの。

梅は雨のたびに大きくなるんよ おんなの人は涙を流すごとに 美しくなるんよ
南條先生が伊予弁で、そげな話をようしとったんを、思い出した。
今日で大好きな五月が終わる。終わりはまた始まりで、まあるい一滴の季節。

今朝は庭の矢羽すすきと棕櫚竹を渡辺愛子作の信楽の花器に植え替え、お店にもってきた。
昨日の雨をたっぷり含んだ土をスコップで掘り起こし、花器に入れる瞬間に「土の香り」
がする。「生きてる」の匂いだ。矢羽すすき棕櫚竹もも元気に東京の土に根をはり、根粒から
恵をいっぱい教授する。粒々皆辛苦の旅。ひとつぶひとつぶ 一滴一滴がたまって人生の妙味が
わかってくる。お茶とかお花とかの「道」には、このあたりの風流の「かけら」がいっぱいころがっている。感謝。

人間には7つの穴がある?

昨日は「順受の会」  23年続いている「論語の会」
一番長老は76歳になった?なる、と昨日いっていた。
詩吟をやられているので、声だけは達者だ、と自画自賛されていたが、
なかなかの健啖家でもあり、まだまだ色気もある。
スケベで声がでかくて、よく飲む(食う)人は元気だ。

昨日は「荘子」。来月からは「韓非子」を勉強する。

有名な混沌(渾沌)を昨日は勉強した。何度読んでも「渾沌(カオス)」な難題である。「荘子」の内篇のうち、応帝王第七の最後の一節。

南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽(こつ)と為し、中央の帝を渾沌と為す。儵と忽と、時に相与(あいとも)に渾沌の地に遇へり。渾沌之を待こと甚だ善し。儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを計る。曰く「人皆七竅(しちきょう)有り、以て視聽食息(しちょうしょくそく)す、此れ独り有ること無し。嘗試(こころみ)に之を鑿(うが)たん」と。日に一竅(いちきょう)を鑿(うが)つ。七日にして渾沌死す。

 
 或るとき、北と南の帝王が渾沌の領土にきて一緒に会った。儵と、忽の二人。渾沌は心から歓待した。儵と忽はそのお返しに何をしたらよいかと相談した。そこでいうには、人間はみな七つの穴をもっている。目、耳、口・・それらで見たり聞いたり、食べたり呼吸したりする。ところが、この渾沌だけは何もない(ゲンゲみたいな感じかな?やっぱり不自由だろう。気の毒だからお返しとして、ためしに穴をあけてみよう、と相談して、毎日一つずつ穴をほっていった。そうしたら、七日したら渾沌は死んでしまった・・・そんな話である。

飲みながら女子たちが「七つの穴がうんちゃら・・・・」と疑問符のような顔をしている。
まじめな女子たちなので、言わなかったけど、7つの穴・・・・男と女では穴の数が違うのではないか?・・
あまり近視眼的にそうゆうことをつきつめると、まさに渾沌としてくる。
穴を無理やりあけたり、無理くりに穴に入れよう、なんて無粋でいけませんよ、というこっちゃ。
つまり荘子は老子と同様に「道(タオ)」を大切にしてきた人なので、「あまり無理強いをしたりすると
いけませんよ。道はたくさんあり、どの道をいくはは、おひとりおひとりがきめなさい」と言っているのではなかろうか?
「大道無門」道を求める人には、門なんてないよ。いつでもどこからでも「道」はありますよ、ということかもなんばん。

能登の「寒山美術館」の玄関には、白井晟一さんの「道」を飾っている。
そこまでたどりつくには、鳥でなければいけないような場所だけど、バスで七尾までいくもよし、
飛行機で羽田から一時間。それから乗り合いタクシーでもよし、レンタカーでもよし、金沢まで新幹線、
そこからレンタカーでもバスを使ってもよし、「道はいっぱいある」のだ。来るも来ないもふたつ道がある。

今日は「書の会」
明日が「おんなかっぽれ」
金曜日は、白井晟一さんの後輩(京都工芸繊維大学の建築家卒業生)たちの会。

すしを喰う会

語りつくせど・・・
の続編があった。

昨日の朝買い物から帰ってくると、カウンターに成川氏が座っていた。
昨日のライブの興奮と、語り残した「何か」がありそうな感じだった。

巫女(みこ)の話になった。女時(めどき)が長く続いているけど、
「女性はみな巫女である」という。卑弥呼も巫女やし、昔から神の声を
伝える役目は女性がはたしてきた。男はそんな女性たちが、感性を研ぎ澄まし、
楽しく暮らすための「下働き」に徹していた。
縄文土器も、女性たちが狩りにいった男たちの無事と収穫の祈りのための祭器である。
最近、その聖域を少しうろつく男性がいる。みな中性のような男子たちらしい・・?

卑弥呼に感応し、「巫女ちゃけんを見ましたか?」と質問した。また昨日のように
目を丸くして「見ます」といった。ぼくの実家のある近くの宮地嶽神社が舞台になっとるんバイ、
と答えたら、「宗像大社の近くの寺でも昨年に続き、今年も奉納のライブをします」
とのこと。「鎮国寺でやるのですか?」と質問すると、「え、知ってるの鎮国寺・・・」と目を丸くして
ビックリされた。
鎮国寺は野村家の菩提寺みたいなお寺。

くうかい、喰う会ではなく、空海。弘法大使でもある。
彼が遣唐使として中国に仏教の修行にいくとき、海が荒れた。それを宗像大社の神様が鎮めてくれ、
そのお礼参りにいった時に、霊的な導きがあって、大社の近くの山の中に「鎮国寺」を建立した。
あまり参拝する人は少ないけど、のちに高野山にもつくるように「奥の院」があり、そこまでの
道はこの世とは思えないほど、霊気に満ちた空気が漂っている。霊験(れいげん)あらたか、とかい
う雰囲気が「!」と体で実感できる場。

昭和54年に本堂の改修をやった。ちょうどぼくが京都にいたころで仕送りも大変だったと思うが、
父が30万を寄付し、名前を刻んだ石がお寺の入り口に建っている。

今年の3月に鎮国寺からみの「空海」のイベントに、里地帰(さとちき)という天真庵で
初年度に二胡のライブをやってくれたこが二胡を演奏し、うちの母や妹が見にいった。
それに続いて成川さんの奉納演奏。「すしを喰うかい」だけをやっている場合じゃない。
8月19日。(参加者はこの指とまれ!)

これから「卵かけごはん」夜は「順受の会」
明日は「書の会」  空海は筆を選ばず。寒山もそうだった。そういえば「筆おろし」
をしてくれるのも大半が女子だ。みんな巫女ちゃけん・・
天恩感謝の日々。

語りつくせど終わらない

昨日は「成川正憲」さんのギターのライブだった。
昨年ひょんなことから蕎麦を手繰りにこられ、その時にカウンター
に座っていたアーティストと、シンクロニシティーみたいな出会いが
あり、あれよあれよでライブの話になり昨日実現した。
無駄のない縁、で繋がっているひと。

昨日の話の続きみたいだけど、能登の三輪福さんちに泊まると、朝は
煎茶の手前のお稽古をしたりしながら「のと里山時間」を過ごす。
その時に「The Time、Now」が流れる。岡野弘幹&三輪福で
作りあげる「この一年の地球の呼吸」みたいな音楽。
その中には、三輪福さんとこ(梅茶翁)の横の小川のせせらぎの音も
録音されている。もちろん天真庵でも時々BGMとして流れているし、
CDを紹介・販売もおこなっている。なんか同じ時間にこの時空で
「生かされている」の喜びがこみあげてくるような神がかった音。

そのパンフを見て「これ、やばいっすよ」と目を丸くしながら、PAの準備を
そこそこにカバンからエーッとかいいながら紙をを出した。7月12日に大阪のROYAL HORSEで
岡野さんと成川さんが初めてのライブをやるチラシだ。
時々起きる「不思議なコト」を感じながらライブが始まった。偶然も必然もない「無」の世界。
CDで聴くのもヤバイくらいいけど、やっぱり「生」(ライブ)はその刹那の中に
「すべて」がつまっていて、言い尽くせないくらいヤバイ。

終わった後に軽く打ち上げ。成川さんのお母様はぼくと同じ北九州出身。
「川筋」といわれる遠賀川の流域で生を受けた話になった。こうなると
「語りつくせぞ飲み足らないし、時間が足りない」ことになる。
その界隈で活躍した「住吉族」と能登は切っても切れない縁で繋がっている。
なんかこの不思議な物語は、これからも続いていくように思う。
お店を閉めたら次の日になっていた。

今日は日曜日なので16時閉店。それから「蕎麦打ち教室」
明日の朝は「卵かけごはん」夜は「順受の会」
火曜日が「書の会」
水曜日が「おんなかっぽれ」

昨日のライブで「視点をかえる」とかいうテーマの曲もあった。
いろいろな角度から鳥瞰図みたいに見ていくと、「宝」がいっぱいある。
若いうちは近視眼的に「ある一点」ばかり見る。年を重ねると
いろいろな角度からものを見ることができる。(若い時の角度にはもどれない残念なこともあるけど・・)
今朝は成川さんの「光の羽」というアルバムを聴きながら蕎麦を打った。
「好きなことを続けていると、光の羽がはえてきて、自由に空を飛べる」
というようなことをテーマにした物語のためにつくった曲。
「ほんとうにやりたいことをする。自由に生きる」がつまったアルバム。
そんな生き方をしたい、は、みんなの思いだけど、いろいろなシガラミが
そうさせてくれない。でも「おもい」は大事だと思う。日々是好日。

破竹の勢い

梅茶翁で寝ると、朝は鳥の声が目覚まし。
山雀(やまがら)やじょうびたきやうぐいすの声にまじって、ホーミーみたいな雉の声
の大合唱。梅林まで散歩すると、紫蘭や関東よりも少し背の高いタンポポやあざみ
が咲いている。枯れたすすきの花と新しい葉が同じところにあったので、それを
持ち帰り、久保さんの梅の志野に投げ入れた。「ゆずりは」ではないけど、新旧の移り変わりの縁起。
政治家やくさったスポーツ界の重鎮たちも、はやく「ゆずりは」のように、新しい若々しい人たちと
交代する時期がきているのではないかしらん。紫蘭を眺めながらそう思った。

それからいつもお茶を入れる。今回は春日茶の新茶を「だいきくん」というお茶のお弟子様の実家の茶畑産のを
飲んだ。野趣満天な味が口の中に広がる。お茶うけは、京都五条のおひがし。東ではない、和三盆でつくった干菓子。
軸かわりに、南條観山先生の「寒山拾得」。梅茶翁の看板も南條先生が揮毫したものだ。
能登では、梅茶翁と寒山拾得美術館で、寒山拾得の世界が垣間見れる。
そういえば、先日石川県立七尾美術館で、長谷川等伯の「寒山拾得」を見てきた。東京の美術館
よりもゆったり見えて気持ちよかった。最近の東京の美術館は、人口密度が濃すぎて息苦しい。
美術館は、地方がよろし。

昨日はダメ中。三輪福さんが土産にもたせてくれた破竹(正確には淡竹)とフキを煮たものを
出した。酒肴にぴったりで、みんなでグビグビ飲んだ。
この会はぼく以外はみな女性で、少し酩酊しないと話に入っていけない感がある。
女子風呂に参加させてもらってるような会だけど、そんなこというと「セクハラ」だと
いわれそうな会。昨日も仕事をやめた若い女子に「もう永久就職にしたら?」というと
「それはセクハラ発言ですよ」とたしなめられた。
不倫とかセクハラとか、みんなで首をとった勢いでかしましく騒ぐ昨今の傾向はちと行き過ぎのような気もする。
若竹をちょっと割るとスパッと避ける。そんな生きる勢いみたいなことを「破竹の勢い」という。
恋愛とか結婚とか、何かを決める時は、考えるより先にいく「力」が必要。そんな「力」が全体的に
弱ってるような気もする。人生は二度なし、なのだが・・

今日はギターのライブがあるので16時閉店。

梅が色づいてきた!梅林ガールズもいよいよ出番。

火曜日から能登里浜時間。志賀町で「寒山拾得美術館」を準備中。
白井晟一さんの「道」に続き、「胆」という字をかけ、そこに久保さんの黄瀬戸の花器を置き、
「義経の舟隠し」のところに咲いていた「あざみ」を投げ入れた。
トゲがささって痛かったけど、この地までわらび姫に会いにきた「気持ち」
が痛いほど伝わってくる。半官ビイキの日本人は今でも義経が好きな人が多い。
でも義経は今でもわらび姫を愛している。そんな声が聞こえた。「命がけで戦い、恋したんやね」

夜は「梅茶翁」に・・
車で約一時間ほどかかる。昨年の6月に「梅林ガールズ」たちと梅とりにきたところ。
11月に剪定をやったので、こころなしか木が元気に満ちていて、小さくなった梅も
ほんの桃色に色づいてきた。来月はいよいよ出番である。当たり前のことだが、
木のまわりは雑草でいっぱい。三輪福さん、しんごちゃんがこれから雑草を刈ったり、
下準備もたくさんある。都会に住んでいると、「できあがったもの」を「お金で買う」
だけで完結することですんでしまうけど、田舎にいって源流から一連の仕事を垣間見ると、
「いろいろな物語」が紡がれていくのがわかる。そのひと手間ひと手間に「愛情」とか「人間味」
が内包されている。

6月は現地で梅を収穫する。初参加の人も手をあげてくれているけど、東京の天真庵でも
「梅干し」「梅シロップ」「梅酒」「梅味噌」・・・などのワークショップを計画している。

今日の夜は「ダメ中」

明日はライブがあるので、16時閉店。
今週 26日(土曜)ギターライブ

演奏者:成川正憲(ギター)

19時開場 19時半開演

成川さんは東京出身だけど、自然農の人たちと寄り添いながら田舎暮らしをしている。彼の「音学」は、
そんな「自然」の波動に満ちている。けっして都会にとどまっていたらできないアート。
これからは、そんな人たちが活躍する時代ではなかろうか。そんな気がする。

わたしが一番きれいだったとき 明日から能登里浜時間

昨日で「染めもん展」が無事終わり。
終わりは始まりで、また来年に向かって始まる。
河野夫妻をおくり、カウンターでワインを飲みながら反省会。

河野さんのルーツは、伊予の「河野水軍」らしい。
元寇や、屋島・壇ノ浦の戦いで源氏に従って 軍功をたてた海賊。
家紋鑑定士に家紋と名前を調べてもらって、わかったそうだ。
伊予に「伊予水軍」という魚の美味い店がある。そこには南條さんの「寒山拾得」
が飾ってある。飄々とした主人もおもしろい。

南條家は、もともと鳥取の城主。今もその地にいくと、記録が残っている。
昨年井伏鱒二の「戦国の茶会記?」そんな本を神保町で見つけ読んでみたら、
ライバルであった毛利家との茶会の話があって、とても興味深かった。

昨日紹介した白井晟一さんは、京都で生まれ、幼少期に隠元和尚のたてた「黄檗山・万福寺」
にあずけられた。その影響で禅的なもの、書道を学んだらしい。煎茶の聖地でもある。
能登で準備中の「寒山拾得美術館」の玄関に白井晟一さんの「道」を飾った。
寒山が住んだ山奥の重巖の中の家までの道は、鳥が飛んでいるくらいで、人が
往来できるような「道」ではなかった。書道・華道・合気道・・・「道」という字が
つく世界は、どの道も同じように簡単に到達できるものではない。
池袋時代、江古田にあった白井晟一さんの住居「虚白庵」にちょくちょくお邪魔させてもらった。
そこから、いろいろ不思議な縁ができ、振り返ってみると「道」らしきものが少し見える。
まだまだ「半ば」に届いていないけど、道が続いていく感じ。

明け方に茨木のり子さんの「わたしが一番きらいだったとき」の詩が夢にでてきた。
少し悲しい詩だけど、なんだかポルトガルギターのBGMででてきた。不思議。

これから「卵かけごはん」
開店前にふたりきている感じ。

明日から「能登里浜時間」 

今週 26日(土曜)ギターライブ

演奏者:成川正憲(ギター)

19時開場 19時半開演

原爆堂と白井晟一展

天真庵の時計とかランプなどは、白井晟一さんのものを
いただいて使わせてもらっている。そんな縁で、ファンや後輩にあたる京都工芸繊維大学の
卒業生たちが年に二回、「忍ぶ会」みたいなことをやってくれたりする。

今日まで「染めもん展」で、二階に飾っていた白井さんの「生」という字も、一階のピアノ
の横に飾った。「文人の書」としては、最高峰にあると思う。

6月に青山で「原爆堂と白井晟一」というテーマのイベントがあり、昨日案内が届いた。
とても素晴らしい文なので、ご紹介する。

 

 野外に出て無限な蒼穹を仰ぐとほっとする。

 これが理想の色かと思う。生きている本当

 の理由が、身内に湧いてくるのである。自

 然の叡智が人間の自由な生命をあらゆる強

 制から解きほぐしてくれるからだ。

 白井晟一のエセーの「めし」の冒頭です。この2年前かれは「原爆堂 TEMPLE ATOMIC CATASTROPHES」のプロジェクトに取り組み、広島、長崎の市民を襲った原爆の残虐、荒涼とした廃墟の世界と向き合っていました。「無限な蒼穹」が粉々に砕け落ちた世界。「自然の叡智」に反して人間が創り出したもの、その爆発とともにアレントの言う「現代」の世界がはじまったのでした

 原爆の威力をさらに高める研究と開発が冷戦下の米英ソでしのぎを削っていたさなか、1954年の3月ビキニ環礁で行われたアメリカの核実験で、日本の漁船「第五福竜丸」が被曝し乗組員23人全員が急性放射能症を発症、無線長は半年後に亡くなりました。核実験によるマグロや海産物の放射能汚染、放射能雨の検証が行われ、3000万を越える署名運動は大気圏内と海洋での核実験禁止にようやく向かわせます。

 この状況の中で映画や文学、写真や漫画、美術や音楽などのさまざまの分野で原爆や核を問う作品が改めて生まれ始めました。映画では「ゴジラ(本田猪四郎)」、「生きものの記録(黒澤明)」、「第五福竜丸(新藤兼人)」、「二十四時間の情事(アラン・レネ)」などがよく知られています。建築界からは.核の問題と対峙する表現は唯一「原爆堂」計画にとどまり、丸木夫妻の「原爆の図」美術館への提案という形で1955年4月に新聞等に発表され広く知られましたが建設には至らず、白井は8月には機能を美術館に限定しない形で国際社会に向け英文のパンフレットを作成します。

 2011年3月、没後30年をまじかに控え「白井晟一 精神と空間」展が「原爆堂」計画を中心に東京で開催されていました。11日、東北地方太平洋岸を大地震と津波が襲い、その中で福島の原子力発電所がレベル7の大事故を発生。核に潜在する脅威が現実のものとなって目の前に突きつけられ、「原爆堂」に託されていたメッセージが60年を経ていっそう切実な意味合いをもって届けられることになってしまいました。展覧会で原爆堂計画を見た作家福永信氏のコメントが印象に残ります。これは「過去のかなわなかった建築ではなく、未来の建築として映る」

 「原爆堂」計画は一枚の精細に描かれたパースと数点の基本図面及び設計者の短いコメントで構成されています。白井の建築家としての活動、エセーを含むさまざまな表現とそれらの背景となった時代に目を向けながら計画の内容と意図を、少しでも全体的かつ正確に把握するための作業を続けています。

 唯一の被爆国、核の被害者であったこの国とわれわれは、フクシマの原発事故を起こしたことによって自国の市民の犠牲ばかりでなく、海洋と大気に放射能を拡散し核の加害者の立場を余儀なくされました。「原爆堂」の建設に向かう活動を促したのはそのことでした。再びヒバクシャを生んではならない、自分たちと同じような凄惨な経験をいかなる人々にもさせてはならない、そうしたヒバクシャを中心とする悲願と活動をとおして育てられた暗黙の了解は、戦後形成された国民的合意の一つであり、日本という国と人のアイデンティティーを形成してきたものではなかったのだろうか。フクシマはその合意とアイデンティティーを破壊するものでした。

 核による脅威を一気に取り払う方法があるのであれば言うことはありませんが、世界を破壊することのできる脅威から解放される道は遥かに遠いというのが多くの人の共有する実感でしょう。そのような困難から目をそらすことなく、人間と核の問題を正視し背負い続けることの重要性から、さまざまな形で生まれまた隠蔽され続けているヒバクシャに対する医療とケアは国境を越えた国際社会の責務であると考え、「原爆堂」を中心にそのための施設と機構の実現を模索しています。

 

 本展は新たに製作したCGムービーを中心に「原爆堂」計画を改めて紹介し広く知っていただくことを願って企画されたものです。

                                           主催 原爆堂建設委員会

                                           協力  白井晟一研究所

世の中に惜しまるる時散りてこそ花は花なれ色もありけり

なんとかいう戦国武将の辞世の句、だと思う。

昨日はお店の前の桜の木が切られた。10年くらい前に誰かが勝手に苗木を植えた。
それがみごとな桜の木になり、毎年春に多くの人を楽しませてくれた。たぶん大島桜だと思う。
ソメイヨシノより色が淡く、「咲いてる」という気負いがなく、ただ咲いているのがよかった。

区の業者さんがきて、根から掘り起こし、そこにアスファルトを入れると、何もなかったようになった。
最近界隈は激変している。東京オリンピックとか近くに大学ができる、とか、上げ潮ムードなんだけど、
長屋や古民家など一度壊されると、「ここになにがあったかもわからない」ことが多い。
日本の伝統的な文化や暮らしも、そうやって「美しい残像」さへ露と消えていきそうな流れだ。

そんなことを騒音の中で思っていたら、目の前に丸く光った物体が通り過ぎた。先日書いた
「エロスの丸い球体?」なんて思ったけど、ほんの数秒だった。不思議なメッセージのような声を残して・・

午後に京都から河野夫婦が上京。今年の作品を二階に飾った。
今年は「青葉染め」の作品が並ぶ。桜やバラなどの葉を「押し花」よろしく「押し葉」にして
そこに染料をのせ生地の上にのせ、100度のスチームで色づけする、という工程だ。
そこまでに至る道に試行錯誤を重ね、完成した作品は、花を咲かせる精が宿る葉の刹那の命を
永劫にした輝きがある。「時分の花」を生涯持つ一枝にする(不失花)、そんな次元の染。
そんな話を夫妻と京都の地酒を飲みながら談論を風発。

ねがわくば花の下にて春死なむ

という西行法師の歌がある。
それはたぶんソメイヨシノではなく、山桜や大島桜のように、あわくて儚い色の花だから
「静かな死」を託していけたのではなかろうか。

せくなあせるな世間のことはしばし美人の膝枕

今の時代の呼吸で生き暮らしていくと どうも息がつまることが多い。
桜を一番美しく愛でるコツは 美人の膝枕 というのが定説だ。

禅林が一気呵成に「円」を揮毫するまあるいものを「円相」という。書くときは
時計回りなんだけど、まあるくなると、どの一点をとっても、右も左もなく、始まりも
終わりもない。「ただいま」(Here Now)だけであり、「終わりは始まり」である。そんな禅問答の
題材としても「まわるい)は使われてきた。仙厓和尚はそれに、「これ食って茶飲め」と賛を添えた。
まあるいのを饅頭にみたてた。昨日はまあるいたまねぎを見て、そんなことを思い出した。

世の中に絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし(在原業平)

というのもある。この界隈に「業平」という地名は残っているが、「業平」という駅は
「スカイツリー駅」になった。のどけからましではなく、かしましい気がする。
どこを見ても そんなかしましく ささくれだったような世の中がちょっと心配だ。

アントワープからピアニストの大屋さん婦人が立ち寄ってくれた。同時に
今銀座で個展をやっている般若くんが、まんじゅうをもってあらわれた。
それ喰って茶を飲んだ。「まあるいご縁」は地球をぐるぐるまわる。

今日から「染めもん展」

今日から京都から河野夫妻が上京され「染めもん展」が開催される。
池袋時代から続いていて、かれこれ20年。ひょっとしたら、超えたかもなんばん。
2011年に旅立ったけど、「とむさん」こと野村富造さんというろうけつ染めを
やっているおっちゃんとひょんなことで縁をいただいて、今にいたっている。
「縁」とか「出会い」から、いろいろなコトがおき、お互いの人生にお金では
買えない「すてき物語」が紡がれていく。人生の妙味であり醍醐味である。

昨日は「焙煎塾」やった。先月押上から金沢文庫(そのあたり)に引っ越した
NUSUMIGUIのゆうまくんが弟子入りした。彼は蕎麦のお弟子さまでもある。
海が近いところに移住し、これからは本業の「ファッション」と、それを生かすための
「自然な暮らし」に磨きをかけるみたい。キャンプファイヤーをやりながら自分で焙煎した
珈琲をシェラカップかなんかに注いで飲む。なかなかいいもんだ。自分の車の中にも、
そんな道具がいつも入っている。ただし、蕎麦とかお茶とかを入れる機会が多いので、
なかなか野外で珈琲を飲む、という贅沢とはご無沙汰しているけど・・

天真庵流の珈琲の入れ方は、ポットではなく銅の鍋をつかって、
そうろうと抽出する。ポットよりそちらのほうが、水が流れ落ちる風が自然だと思い、
30年以上そうしている。でもそんなことが「!」とくるまでには、最低1000回、
毎日やって3年くらいはかかるのかもしれない、と最近思う。真剣にやってそのくらい
かもしれないので、「珈琲を楽しむ」だけでいい人は、ポットでぽーっと入れる
ほうがよろし。

お茶の入れ方の極意に昔から京都の茶人たちの間に伝えらてたものに、「ソビバビソビ」
というのがあんねん。これも口でいうたら簡単やけど、その境地にいたるのは、簡単ではない。
ぼくの珈琲は京都時代にある茶人に教えてもらった「ソビバビソビ」をヒントにしている。
これは、5年以上続けたお弟子様に伝えているもの。
♪ビビリバビリブー   そんな歌もあったっけ

煎茶の教室は今は休止しているけど、この教室も「飲むだけ」のお稽古が3年。
ほとんどの人がしびれを切らして、3年もたない。
でも石の上に三年ではないけど、単純なものほど奥が深い。
今日から始まる「染めもん展」のふたりの人生は、「染めもん」一色の人生。
「ひとつごと」をやりぬいた人の「生きる技」というのが作品に込められている。

染もん展

「京の染色工芸」 河野染色工芸スタジオの仕事

18(金)15~19時、19(土)・20(日)13~19時

26日(金)ギターライブ

演奏者:成川正憲(ギター)

19時開場 19時半開演