京都競馬場

学生時代、京都競馬場でアルバイトをしていた。
京都大学、同志社、立命館、京都産業大学の乗馬クラブの人
たちがほとんどだった。彼らは給与をカンパし、馬の飼葉の費用に
あてる、というのがならわしだった。全部で30人くらいいたけど、
どうゆうわけか、京大と立命館には「貧乏学生をたすける枠」が3席づつあって、
不思議な因果で、その席をちょうだいしていた。

愛媛の先輩が、学食でいつも
「ごはんと味噌汁」(A定食とかB定食、とかが普通で、そんなメニューはなかったけど、
お金がないので、そんな注文をしていた、ぼくの貧困ぶりを見かねて、空いた一席を
「あいつにあげよう」と思ったらしい。仕送りも普通にあったし、珈琲屋のバイトも
社会人の人より多くかせいでいたし、家庭教師もしていたので、ほんとうは「貧乏」で
はなかったけど、毎日のように荒神口の「安兵衛」とかで飲んでいて、二日酔いで
「ごはんと味噌汁」が最高のごはんだったのだ。

昭和51年のアバウトな物価。珈琲代が250円。新卒の給与は9万円。
王将の餃子はタダ(ただし、開店した目玉が、そんな具合やった)。天下一品のラーメンは400円
でも、学生割引で30円くらいまけてくれていた。
ぼくの珈琲屋のアルバイト自給300円。立命館の授業料198000。
そんな時、京都競馬場のバイトは、年間40日で、40万ちょっとあったと記憶している。

今年の正月に競馬会に激震のニュースが走った。ウオッカ、ヴィクトワールピサ輩出の名門の「角居きゅう舎」
が3年後に解散する、という。世界のスミイと呼ばれた角居勝彦氏はまだ53歳。
公文書の書き換えうんぬんで責任をとれない政治家たちの出処進退とは、雲泥の差である。

天真庵を入る時、引き戸に手をかけて開けて入ってこられる。「天真庵」と書いた銅の金具を
つくってくれたのは、その世界のスミイ(出身は石川)さんの弟くんの角居康弘くん。
ぼくの煎茶の道具の、茶合、茶たく、水差しは、久保さんがつくり蓋は角居さん、という合作もある。
最近は「能登でお茶会に使う茶入れの蓋」をつくってもらった。奈良の骨董屋で見つけたデルフトの器に
あわせて彼が彼しかできない仕事をしてくれた。「にしかできない仕事をする」のが、角居兄弟のDNA。

今日は「ゆるゆるヨガ」かすみちゃんが先生。彼女も石川県。来週はそばのお弟子さまたちといっしょに能登にいく。
明日は日曜なので16時閉店。それから「蕎麦打ち教室」
月曜日の朝は「卵かけごはん」

火曜日から能登にいくので、火曜日は「臨時休業」。しばらく「能登の天真庵」の準備
があるので、火曜日あたりが「休み」が多くなりまする。ごかんべんのほど。

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