英語でそば会

昨日は「長屋で女史会」だった。50回目。
昨年から「本能寺の変」を二年間かけて勉強している。信長
という代表的な武将のまわりの女性たちに焦点をあてると、とてつもなく
縁とかくされ縁、死にいたる縁、いろいろな物語が埋もれていておもしろい。

そして「旅」のように、途中下車したり、予定のない地に足を踏み入れたり、脱線したりして
ときどき「新しい世界」を逍遥したりする会だ。昨日は「日本の芸能と差別の歴史」
という、教科書や学校ではぜったい教えてくれない歴史を勉強した。ここでは絶対にかけない内容だ。

そもそも芸術というものは、今の時代みたいに、行き詰まり感や終末感にあふれ、世の中の価値観がガラリとかわる
ような分水嶺みたいな時に、芽吹いたり、花が咲いたりしてきた。振り子がなんども繰り返し
の運動をするように、右へふれたり、もどってきたり、左へふれたりするものだ。「大変な時代」
を生きているけど、視点をかえると、ウキウキするようなことも多い。やはり

「終わりは始まり」

なのだと思う。

今日は「英語でそば会」
スカイツリーのところで、先生と生徒が集まって、観光客に英語で「ちょっといい店があるのやけど、茶せーへん」
と声をかける。昔から伝統的に「ポンビキ」といわれた世界。

昨日の授業で習ったばかりだけど、浅草の再生和紙の職人が、紙を再生させる時に熱を加え、それを
自然にさます時間に、「ちょっとひやす間に、散歩しょか」とかいって、吉原界隈にいき、女郎たちの顔を見たり、声
かえる所作から「ひやかし」という言葉がうまれたらしい。

「ちんぴら」というのは、ふんどしもはけないような身分の人が、けんかしたり、仁義を切ろうとがにまた
になった時に、「チンチンがピラっと」見えるところか銘々された。
まだブリーフがない中学時代、ぼくの友達が体操の時に、パンツからのぞいたことがある。それ以来
彼は「ピーロン」とあだ名された。「チンピラ」でなかったので、ぐれることなく彼は九大までいった。
もうひとりそのままずばり「チンポ」というあだ名の友達もいた。言霊に導かれるように今は「産婦人科」の先生をやっている。

こんな話をしていると、終着駅が見えなくなく。それもまた旅のおもしろさではあるけど・・・