日々是好日

このブログの最後に「感謝」と書いて〆ることが多い。昔ねっと21という
業界団体を率いていたころ、毎週会員さんにメルマガを書き、最後にそうやって結んだ。
お茶をやりはじめて、そのようなことを書いた日などは、「日々是好日」と結ぶこともしばしば。

先週古本屋で「日々是好日」(新潮文庫・森下典子)を見つけて読んだ。副題に
・お茶が教えてくれた15のしあわせ、とある。最初は親がすすめるままに始めたお茶が、
続けていくうちに、雨の音、四季折々の自然のうつろいや、それにあわせたさりげないもてなしの工夫など、
見えなかったもの、気づかなかったことが、ある日突然「!」ときたりする気づきなどを、おもしろおかしくつづられて
いて、たいへんおもしろかった。もうすぐ「映画化」される、らしい。絶滅危惧種のようになりつつお茶がよみがえる
といい。お茶やお花がなくらるのは、日本人が滅びにいたる、と同義語である。

昨日はお店をお休みにして、茨木の「暮らしの実験室」に「蕎麦打ち」にいってきた。4年目。前日に今年収穫した蕎麦を
脱穀し、粉にする作業を農場とそこに泊まりにきた人たちがやってくれた。今年は「常陸秋そば」をつくったそうだ。
自然光の中で打っていると、緑色したそばの生命がそばの香りといっしょに踊っているようだった。都会のそばやでは
堪能できぬ世界。

「麦の家」をつくった哲学者のような農業家に「松井浄蓮」という人がいた。うちの常連ではないけど・・
彼の残した言葉にこんなんがある。毎年八郷(やさと)の暮らしの実験室にいくと、このようなことを痛感する。

・・・(略)とにもかくにも土について生活をしていれれる方々は、全然一般の人々とは本質的に違うもので日常生きて御座るのである。
これをここで自分流儀の言葉でいえば、人間としてなくしててはならぬものを、無傷のまま、まだ胸の奥底に生活の根にちゃんと
持っていられるのである・・・「萬協」という浄蓮さんの残した小雑誌から

これから「卵かけごはん」。暮らしの実験室の平飼いの卵と、具だくさんの味噌汁もそこで無農薬
でつくられたものを使いまする。

本日の夜は「漢詩を詠む会」で御座る。
「日々是好日」の中に、「床の間にかけてある掛け軸が、一番のごちそう」とお茶の先生にいわれ、
きょとん、とする著者の心境がおもしろく書かれている。床の間の軸を「ごちそう」だと思うには、少し漢詩を
詠んだり、書を学んだり、努力が必要なのでござる。時間はかかるけど、そのあとには、おいしい(ゆたかな)ごちそうに
ありつけるのであーる。日々是好日。