さきほど、そんな張り紙をお店にはった。
昨日は「順受の会」。22年続いている通称「論語の会」。
論語をやる年もあれば、大学や陽明学や易学などをやる年もある。
来年は無為自然な老子をやるらしい。楽しみだ。
煎茶をやっていると、論語よりも老荘思想のほうが、ストンと丹田あたりに落ちることが多い。
「無為」というのは、なにもしない、というわけでなく、自然にふれる、自然体で生きる、
のほうに近い感じがする。
論語の会は「寺子屋」の原型のような会。22年前は渋谷でうぶ声をあげた。公共の会館を借り、
一時間朗々と論語を読み、その後は近くの居酒屋にいき、薩摩白波(先生がかごんま出身)を
飲むながら談論を風発する。みんな若かったので、時には一触即発のようにヒートアップすることしきり。
天真庵でやるようになってすぐに、ぼくが広島達磨にいき蕎麦に修行をしたので、今の形(そば会)
スタイルになり、白波が花(蕎麦焼酎)になり、そば湯割りが日常茶飯(酒)になった。
最近かわったのは、能登梅をつかった「梅ごはん」と香の物が、「隕石ぬか漬け」になった。
星の王子にもらった「隕石」のかけらをぬか床に入れただけだけど、ぬか漬けが3倍うまくなった。
夜は枕の下にひいて寝る。寝相が悪いので、朝まで頭の下にあることは稀有だが、昨日は明け方
に不思議な夢を見て、起きたら頭の下に鎮座していた。睡眠中は潜在意識の世界にいくらしいが、
隕石枕で寝ると、もう少し深い「無意識世界」みたいなところを逍遥する。
時々蕎麦を手繰りにくるヨガの先生が「最近はお寺よりも、車の中で悟る人が多い」という言葉を思い出した。
事故になる直前とか、曲がりカーブでひやっとする時に悟るそうだ。座禅をしていて、後ろに椅子があると
思いもたれかかろうとしたら後ろに倒れそうになった。その瞬間に悟った、という法話のような話。
明け方の夢は、遠賀川くらいの川に舟で遊んでいたら、大きく舟が旋回した。大きなゆらぎと恐怖から、そんな(車の中のような)感じになって
ふっとかたわらの人?に抱き着いった瞬間にはっと目が覚めた。悟りの瞬間を生まれて初めて体感した。
論語の会の前、15年ぶりにIT時代の知り合い社長がそばを手繰りに熊本からこられた。
あった瞬間に、15年前の最後に飲んだ「江戸一」での会話の続きをした。「友の遠方きたるあり。またうれしからずや」
ではないけど、年を重ねるほど、人恋しくなり、酒がますますうまくなる。その友達は糖尿病で酒を断っている、と、
チズケーキを食べながらのたまっておられた。感謝。