二年前に3枚の葉がついた枝をもらってきて庭に植えた椿が元気に育っている。
夏も近づく八十八夜の茶の若葉みたいに、ういういしい。小さな池の中でめだか
も動き出した。その池の端に、南天がジャングルのようになっている。
明日から東武で陶展をする渡辺愛子さんの大壺が天真庵の二階にデンと置いてある。
いつもは、その南天を一週おきくらいに、そこに投げ込む、というのが、ならわしになっている。
今年から、目の悪いマーくんが、週二回のペースで二階のスペースで「満つまめの会」という
気功整体をやっている。彼が手探りでてすりを使って階段を上りきったところの左に、その信楽
の大壺があるので、あまり大きな南天だと、「難を転ずる」の言霊とは裏腹に、困難なこと
になるので、今年はそこにあまり大きなものを入れないようにしている。
だから庭の南天は行き場がなくなり、植物密度?がすごいことになって、茂っている。
昔から「恋泥棒と花泥棒は罪にならぬ」ということわざがある。ならば、その反対も無罪であろう、
と勝手な法解釈で、昨日は近所で始まった「カフェ」の玄関の前に、南天を勝手においた。
できたばかりのういういし新店の前で、若葉が風にそよぐ姿はまことに、風流だった。後で
「素敵」とそこの主人からおせじのメールがきて安心したしだいである。
今朝は、もう一本、枝ぶり(葉ぶり?)のいいのを切って、お店にあったビンに投げ入れ、散歩しながら
押上文庫の玄関先においた。主人たちはまだ寝ている時間だが、それを見ていた近所のおばあちゃんに
「立派なナンテンですね」と褒められた。花泥棒は罪にはならぬが、こんな風に褒められることはない。
明日は、どこのお店においてみようか?などといたずらな少年のような気分で、憲法記念日を迎えた。
そのくらいのささやかな幸せな権利を、基本的人権とかいうのだろうか?当たり前の人間の自由に生きる権利
が、危うくなりつつある今日このごろ。