プッチャリンの応援団きたる!笑、がいい。

浅草あたりで、ときどきチャップリンそっくりのピエロ
の恰好をしたおじさんを見かけることがある。プッチャリン。
実家が宗像という不思議な縁で、天真庵の上原英里さんのシャンソンのライブ
の時に、共演してもらったことがある。

彼と同級生で、ちょっとお洒落なおじさんがときどき珈琲を飲みにこられる。
九州では、いいにくか言葉やけど、必ず「ボボブラジル」と、濁音で注文される。
「しまうまおじさん」で検索すると、彼のお洒落な日々のインスタ?が見られる。
毎日、同じ角度から自分を撮影する。少し太ったと思うと、メシを減らしたり、
一駅歩いたり、日々精進のたまもの、みたいな生活をしておられる。

もうすぐ後期高齢者なんだが、最近「月初めは田舎暮らし」を実践されている。
下諏訪?に人気のゲストハウスがあり、そこに「焙煎器UFO」をもって何日か滞在し、
銭湯にいったり、若いアーティストや、お客さんとふれあいながら、青春真っただ中なのだ。
朝ごはんの時は、UFOで焙煎し、いっしょに泊まっているお客さんやスタッフに「手前珈琲」を
ふるまっているそうな。
「自然農をやっている人に頼まれたけん、UFOをもういっちょ買っていくばい」といって、
かえりに、お持ち帰り。ひときわ大きな声で「デカマラの生も買っていくばい」とのこと。
標準語になおすと「ガテマラの生豆をちょうだい」。
こんな元気な老人さんが増えると、日本もまだまだ斜陽どころのさわぎじゃない。

今朝、熊本のIT時代の仕事仲間からメール。
「年末はお世話になりました。いただいたうめ星・・・すごいです。珈琲に入れたらなめらかな味になる。朝起きた時、寄る年波のせいか、
小指が痛くてたまらんやったけど、うめ星をにぎっていたら、5分で痛みが消えます。
お礼かわりに馬刺しをおくりました。ご笑納ください。」とのこと。
この人の会社は、ぼくがソフトバンクにいたころ(昭和57年ころ)、取引額がベスト5
の中に入っておられた。古希を超えたけど、やっぱり感性がするどく、
いろいろ勉強させられていること多しだ。ひょっとして、70代のおじさんたちは、日本や世界を変えていくかもなんばん!?感謝。

クリックよりスナック。ジョギングよりジョギが面白い?

東証がバブル時代よりも高値を更新した。
あまり実感がわかないのは、株に投資するわけでなし、
健康的?なその日暮らしをしているからだろうか?
能登で暮らしはじめてからは、株よりも「かぶら寿司」
のほうに触手がのびる。

昭和のバブル期も、あまり実感はわかなかったけど、飲み屋が
どこも繁盛していたし、ナガッチリや梯子して終電で帰るをこえた人たちが盛り場にあふれ、
タクシー乗り場に人が行列していた。新宿で飲んで、最後にゴールデン街で時間をつぶし、
明治通りにでてタクシーを拾おうにも拾えず、池袋まで歩いて帰ったこともしばしばあった。
ゴールデン街でよくいったお店が「洗濯船」。

店主のゆっこさんから、先日新年のあいさつ状がきた。
今年は48年目とのこと。干支を4回まわしたことになる。すごい。
もともと、藤間流の踊りをやっていたり、何周年記念のパーティーでは、ミニスカートを
はいて、シャンソンやジャズを聴かせてもらったこともある。古希をこえた今は、ミニスカート
を袴にかえて、ジョギ(女義太夫)の浄瑠璃を趣味でやったりしている。

彼女のお店の常連さんで、3月20日(祝日・12時45分開場13時30分開演)に、紀尾井ホールで初舞台を踏む人がいる。「女流義太夫演奏会」
竹本越孝(こしこう)門下、竹本孝之資(たかのすけ)さん。

今年は「なにか新しいことをはじめる」と、運気もあがりそうだ。
ジョギの演奏会に興味がある方は、03-6264-3047まで電話してみてください。
昨日も、ジョギの人たちが、味噌つくりにこられ、話が盛り上がっていた。

ゆっこさんの賀状には、いつも一句ひねったものが添えられている。今年は・・

花の山数歩に越えし太郎冠者

「かもす」毎日・・味噌つくりも後半戦・・

今日は20日。先月の後半から始まった味噌つくりも、折り返し地点を過ぎた。
今年も100人を少し超え、104人の「菌活仲間」が味噌をつくりにくる。
一日二三人が普通だけど、先々週の土曜日が7人、先週の土曜日が6人だった。
さすがに、その人数になると、天手古舞になって、ぼくの手が猫の手になる。

今日は3人が味噌つくりにくる。寸胴(ずんどう)にいれた大豆と水(仕込みの日の二日前からつける)を石油ストーブと
囲炉裏の五徳の上にのせる。昨日から小春日和の陽気なので、ペレットストーブには火を入れていない。
2月に入って5日くらいしか出番がなく、なんとなく寂しそうな顔をしている。山形の会社の
ペレットストーブ。女性オンリーで企画したらしく、細部まで気が配られていて関心することしかりだ。

まだ水も断水で、避難所で生活している人も多い能登のことを思うと、「暖かいほうがいい」と思う。
正月から大震災に見舞われ、まだ「おめでとう」どころではない。でも昔から災難は時を選ばずやってくるものらしい。

「葉隠」ほど有名ではないが、後世の人に影響を及ぼした儒学者に「大道寺友山」という人がいる。坊さんみたいな名前。
山鹿素行の門人で「武道初心集」を残した。その中にこんなくだりがある。

武士たらん者は、正月元旦の朝、雑煮餅を祝うとて箸を最初に取り始めるより、その年も大晦日の夕
に至るまで、日々夜々死を常に心にあつむるを以って本意の第一と仕(つかまつ)るにて候

「今だけ 自分だけ お金だけ」の政治家たちに、そんな気骨は微塵もない。世が世なら、みな切腹の沙汰みたい
な輩が集まって、内閣支持率も20%を切りそうな今日このごろ。

月曜の朝は玉子かけごはん

世界に誇れる「日本の朝ごはん」の王様。TKG・・・玉子かけごはん!

昨日の夜は「ゆるゆるヨガ」やった。
女子たちが二階でヨガっている間、ぼくはそば会の準備をしながら「まかない」をひとりで食べる。
だいたい、というかほぼ100%、カレーライスを食べる。能登牛の牛すじを、中前さんの塩で
茹で上げ、「牛すじカレーそば」と「牛すじそば」と、酒のつまみに「牛すじ煮込み」にして提供している。
月に一度「ゆるゆる・・」の日は、牛すじカレーごはんを食べる。
メニューに入れようかと、密かに思いながら5年。ただ自分だけが試食を続けている。私食?
そばが体力的に打てなくなったら、「能登牛すじカレー食堂」という看板にしようかな?

玉子かけごはんのごはんは、丸和工業(珠洲にある)の珪藻土竈に炭をいれ、羽釜をのせて
オコゲをねらって炊く。つまみぐいすると、一合くらいなくなりそうなくらいの筆舌を超えた世界の「ごはん」
ができる。ごはんがあまったら、夜は「天津飯」にすることが多い。
能登の椎茸と、玉ねぎと、ずわいがにの缶詰を入れて、そこに平飼いの玉子をいれてつくる。
これも、メニューに入れるとおもしろいかな?とか思っているけど、「美味しいものは、自分でつくって食べる」
ほうに軍配があがりぎみ。自分でつくれるものをよそに任せたりする現代の生活を続けると、「自分の生きがい」
が見えなくなってくる。
もしもメニューにするなら「天真飯」になる(笑)

そんなこと思いながら、月曜日は、ウキウキしながら仕事(遊び?)をしている。
脳内モルヒネが、あふれるくらいの月曜日。
能登輪島のさつまいも、の「干しいも」もできあがった。ほしい人は、一袋150円で売ってあげる。
「さつまいもからUFOまで」売っている下町商社・天真庵。感謝。

これがあれば、災害時にも憂いなし!

昨日は、開店そうそうに、みしらぬ人たちが、ぞくぞくと蕎麦を
手繰りにきてくれた。そろそろうちも「ミシラヌ?」の星がつくかもなんばん。
最初の女子ふたりは、「先日新潟の人たちを歓待してくれてありがとう」とのこと。
昔のことを覚えていても、最近のことや、人の名前などはすぐにわすれるようなお年ごろになったけど、
「新潟の人たち」とは、3人組の男子で、十間橋通りの新しくできたゲストハウスにチェクイン?した後に
カウンターに座って、四方山話(新潟も今回の地震で被害をうけた。そんな話)をしながら、
「夕飯は、燕京亭(えんきょうてい)にします」と、紹介したばかりの下町中華屋にいった男たちのことは、
鮮明に覚えていたので、「おぼえとるばい」といって、談論風発した。

次の老夫婦は、一番奥の二人掛けのテーブルに座ってもらった。どうも初めてこられたみたい。
カウンターには、長崎からきた常連さんが、「カステラ」を土産にくれたり、大分に帰ってきたばい娘さん
が「西の関」を持参してくれたり、九州弁の真空パック土産みたいな様相だった。
その老夫婦が、お会計の時に、ビニール袋に入ったお菓子をくれて、「なつかしいやろ」といって笑った。
「くろがね 堅パン」だ。北九州の人口は100万人を少し切ったけど、この「堅パン」はみな食べるし、
家に保存食としてもっている。くろがね・・・鉄。鉄の町が、新日鉄マンと共同で開発したパンだ。
災害の多き時代には、どこに住んでいても、必需品かも?「くろがね 堅パン」で検索するとネットでも買える。
瞬間に男の顔を見直して「OH!のーじ」とおらんだ村。
東京に「NOZY COFFEE」という有名なカフェがあるが、それと同じことだま。「のーじ」。
北九州の慶応幼稚園?みたいな幼稚園の同窓生だった。「所さんが美味そうに食べていたんで、そばを
食べに来たっちゃ」とのこと。表で肩組んで記念撮影をした(笑)

ちなみに、ぼくの渾名は「ノンチン」。昔は、もっと直情的なあだ名で、今ではクレーム
になりそうなんがいっぱいあった。「チンポ」というあだ名の友達は、その言霊の赴くまま産婦人科の医者
になった。もうひとり「ピーロン」というあだ名の男がいた。ブリーフなどない時代、体操の時間に、いちもつ
が、半ズボンから「ピーロン」とのぞけてしまって、瞬間的にその名がついた。命名者のセンスに拍手をおくりたいけど、
つけられた本人は、迷惑な思いで思春期を過ごしたに違いない。感謝。

今日も12時から16時まで営業。それから「味噌つくり」「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」

明日の朝は「玉子かけごはん」(8時ー10時)

伊那谷(いなだに)の老子

故・加島祥造さんの本。加島さんの息子さんは、何度か天真庵にきて蕎麦を手繰ったことがあられる。

神田生まれの江戸っ子で、フォークナーなどの翻訳で有名な著者は、60歳を過ぎて、長野県の南信地方「伊那谷」に定住する。中央アルプスと南アルプスに抱かれた、この大きな谷の自然の中で、老子の深い思想に目覚めてゆく自身を描く、名随筆集。「もとめない」「ひとり」・・など。
老子を英訳してから、はじめて興味をもったという逆輸入みたいな話だけど、だからこそ解りやすく、秀逸な老子本だ。
日本の文科省では、「論語」を中心に習うけど、「老子」や「墨子」のほうが、断然おもしろい。

先日「味噌休み」をもらって、伊那谷にいってきた。京都時代のからふねや時代の同志が眠っている。
墓標を見ると、「昭和57年4月22日 享年22歳」。もう40年以上になった。生きていたら
「伊那谷の老子」になれるくらい飄々としていた。城倉良雄くん。ぼくはその年の夏に京都から東京へきた。
ぼくが24歳の時、骨肉腫になった。お店のお客さんで、湯川秀樹と同じ時期に京大の教授だった人の
紹介で京大病院で検査を受け、京都府立大学の病院で手術をした。そこでリハビリをしている時に、彼
がバイクで事故をおこして、足を痛めた。軽い気持ちで「ここの病院がええで」といって、同じ病院で
検査をした。足の甲のあたりが真っ黒なレントゲンを見せられ、「同じ病気や」と主治医がいわはった。
ぼくは一年くらいで復帰したけど、彼は一年くらい入院して、伊那谷の墓に入った。

いつも、墓参りの後は、信州か山梨の湯治場みたいなところの湯宿に泊まる。
リュックに「伊那谷の老子」をいれて、ひさしぶりに読んだ。
「パーフェクトデイズ」を観た後でもあり、なんか新鮮にこころに染みこんでいく。

木曜日の夕方には、能登の「TOGISO]の佐藤くんと、天真庵を改装してくれた中西くんがきて、
おでんをつつきながら、能登の復興の打ち合わせ。〆は、山梨の道の駅で買ってきた「生ほうとう」
をおでんの汁にいれた。赤崎という志賀町にある港町は、土地の岩盤が
強くて、奇跡的に震度7の揺れに耐えた家が多かった。TOGISOも立っていたので、屋根とか、部屋の片づけを
して、今は「復興支援隊」の人たちの基地として活用している。
せっかく、昨年の夏に「カフェ」を併設したので、落ち着いたら、赤崎を中心に「癒し場」を作りたい、
とあれこれ無い知恵をしぼって、模索中だ。

昨日は、墨田の「やっちゃば」を主催しているHくんからの依頼で、能登島産の「ふくむらさき」が一箱届いた。
流通がストップした野菜を、墨田のカフェや食堂にお願いして、「墨田で能登野菜を」との提案。
さっそく「ほし芋」をつくった。「そばやのちょい飲みセット」で、ツマミにしようと思う。

ぼくが能登に移住するきっかけになった「能登」という雑誌も、冬号が休刊になった。
輪島にある事務所も甚大な被害を受け、今は金沢の仮事務所で、復活を準備中。
昨日は雑誌にはさんであるバックナンバーなどの注文するための用紙で、寸志寄付をさせていただいた。
天真庵にもおいてあるけど、ほんとうに、素晴らしい「能登本」。

今日からまた営業。12時から16時。
それから「味噌つくり」・・・6人。「UFO焙煎塾」「そば打ち教室。

五月の池袋にエロスな雪が降る!

天真庵のカウンターの上に、手動のダムウェーターがあり、ほんとうは一階と二階を
つなげて、そばや珈琲を一階から二階へ運ぶ予定にしていた。
でも、二階まで客席にするなんて、なんとなく非効率やし、体がもたないことに気づき、
そこに「木彫りの猿」を置いた。三番叟(さんばそう)。昔から、猿が五穀豊穣を祝う舞をして、
歌舞伎などの演目として人気がある。

「5月の池袋にエロス雪が降る」
吉祥寺にあった「前進座」(今年93周年)の「雪祭5人三番叟」が、池袋の「東京建物 Brillia HALL」
で、講演される。
5人の女優が三番叟に扮し、さらに「じょぎ」(女流義太夫)が、囃子方(はやしがた)を揃えるというワンダフルな
趣向。へたな酒肴より酒が美味くなりそうだ。浄瑠璃や三味線方の人たち3人が、天真庵の味噌つくり仲間なので、
ぜひ足を運ばねばと思っている。

同時に「鳴神」が上演される。歌舞伎十八番のひとつ。銀座の歌舞伎座の近所には、「鳴神」という名の喫茶店
があった(まだある?)くらい人気の演目。
今年は龍神様が正月から、あばれた。鳴神上人が、あるとき滝壺の龍神さまを封じ込め、三か月も雨が降らず、
民百姓が苦しんでいた。そこに絶間姫がやってきて、色仕掛けなどを駆使して、上人を酩酊させ、その隙に
龍神さまを解放させる・・・・そんなお話。少し艶冶でエロスな内容だ。♪この柔らかいものはなんや・・?
昔から歌舞伎ファンの中では「前進座の鳴神は、歌舞伎座よりいい」との評判があった。
ぼくも、池袋時代には、まだ吉祥寺に劇場のあったあった前進座の鳴神を観に足を運んだものだ。

5月11日から20まで。チケット発売は3月15日(金)から 
前進座 0422(49)0300(平日10:00から17:00)
www.zenshinza.com からもOK牧場。

今日は12時から16時。その後は、「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」「味噌つくり」

明日は旗日だけど、「月曜の朝は 玉子かけごはん」(8-10)

明後日13日(火曜日)から16日(金曜日)まで「味噌休み」

能登塩の匠 中前賢一さんをしのぶ毎日

今日は旧正月。
毎日、中前さんが活躍している。味噌つくり。ほとんどの人が、正月の地震で被災して亡くなった中前さんの塩を
つかって点前味噌をつくる。お店で売っていた彼の塩は完売。厨房の中に、調理用に
あと少しだけ残っているだけ。

中前賢一さん。享年78歳。映画『ひとにぎりの塩』に「おいしいものはおいしい」
と、でてこられる。YouTubeの予告編観でも観れる。

昨日の夕方、そばのお弟子様が3人で蕎麦を手繰りにきた。
夕方くると、いつも「文膳」という、昼酒そばセットを所望される。
まずそば豆腐。豆乳に筑前葛をつかってつくる。少し能登塩を入れるのがポイント。
それに、柚子胡椒とかえしをかけて食べてもらう。
柚子胡椒も中前さんの塩だし、かえしにも隠し味に塩をきかせてある。塩梅というより、彼の
塩がないと、あかんばい。

お酒は、燗酒用の「遊穂」(UFO)。能登の地酒だ。昨日は久保さんの黄瀬戸の片口に、
中前さん作の「焼きあご」を入れて、アゴ酒にして供した。

三種盛りは、冬は「おでん三種盛り」にしている。(今年から)
新潟の車麩、豆源郷と豆腐、こんにゃくの上に刻み葱をかけ・・・を志野皿にのせ、練りからしで
食べてもらう。おでんの出汁は、こんぶと能登の椎茸、能登塩、かえし、酒でつくる。
今年になってまだ能登にもどれていないので、富来の「はしもと食堂」のおでんをイメージして、急遽メニュー
に加えた。純喫茶のメニューに「おでん」がある店は、あまりないだろう、と、笑いながら黒板に書いたら
ことのほか好評だ(笑)ついでに「牛すじの煮込み」(能登の居酒屋にいくとたいがいある)もメニューに
加えようかしらん?能登の牛すじの煮込みはどこのお店も塩で味付けをする。お澄ましの中に、牛すじが
♨に入っているようなやさしい風情の味がする。

〆のそばも、中前さんの塩で食べてもらった。慈悲深いというか、「土を喰らう」気分になる。

こんな体にもこころにもやさしい塩が、以前政府が「専売公社」をつくったせいで、絶滅しかけたことがある。
日本人はそのおかげで、塩化ナトリウムを「塩」だと洗脳され、長いことケミカルな塩を食べてきた。
そのおかげで、成人病が増え、こんどは「減塩」といういいかげんなメッセージで、また洗脳している。
いい塩は、「減塩」ではなく、毎日適量に食べているほうが、元気になる。自分たちの「命」が海でつくられてきた
ことを思うと、誰でも理解できる。
今年も100人を少し超える人が「味噌つくり」に参加された。「百匹目の猿現象」で、まっとうなコトが優美に広がって
いきますように。。。。感謝。

小説 能登

直木賞作家で、能登の七尾出身の「杉森久英」の「能登」という小説がある。
作者の複雑な家庭環境の中での葛藤とか、古きよき時代の能登の風物詩が描かれていておもしろかった。
七尾のは一本杉通りといって、老舗が古色蒼然としたまま残る一角で作者は生まれた。
今回の地震では、その通りも甚大な被害を受けた。

ぼくの能登の家は、志賀町にある。今回は震度7の地震で報道され、全国区になった。
もともと、九州の海賊か漁師が訪れ、志賀島と同じような風光明媚な海を見て、そう名付けた
に違いない。歩いて10分もしないところに、「やせの断崖」という断崖絶壁がある。
松本清張の「ゼロの焦点」のクライマックスに使われた場所。小倉生まれの著者は、一度も能登
を訪ねずに書いた、を小倉の松本清張記念館で知った時は驚いた。
映画にもなり、うちの集落の船小屋の風景がロケ地になったらしい。

先日、宮本輝の「幻の光」という短編を読んだ。

きのう、わたしは三十二歳になりました。兵庫県の尼崎から、この奥能登の曾々木(そそぎ)という
海辺の町に嫁いできて丸三年が過ぎたから、あんたと死に別れて、かれこれ七年にもなるんです。

から始まる。「あんた」は、7年前に自殺。どうしてなんだろう、と能登で新しい生活を始めてもすっきりしない気持ちと、
奥能登の厳しい冬の海の模様が心象風景になって、「さすが、宮本輝」といった感じの短編。
曾々木の近くにあった「栗屋さん」も今回の甚大な被害にあって、能登を離れる決心をしたらしい。

能登は、大阪府と同じくらいの面積の土地に約19万人が住んでおられ、毎年人口が減り続け、過疎が
全国でもトップクラスらしい。今回の地震で、若者がまた都会にもどり、高齢者がよその土地で暮らす
ようになると、より一層加速するのだろう。
でも大事なことは、これからどこで今回みたいな大地震がくるか予測はたたない。
この国のリーダーたちは、旧統一教会とズブズブの関係で、裏金つくりや私腹を肥やすこと、「今だけ、お金だけ、自分だけ」
の輩ばかりだ。
「もしも、今住んでいる場所に大地震がきたら・・・」というシュミレーションと、備えを、大事な家族や友達と真剣に考える
必要があると思う。正月、旧正月(2月10日?)、盆、暮れに関係なく、突然やってくるのだから・・・。

毎日味噌つくりの2月。味噌をつくるのも、「備え」のひとつ。感謝。

珠洲の気骨ある女性写真家

先日、味噌つくりのタイミングで、お茶のお弟子様が読売新聞を
もってきてくれた。2月2日の朝刊。「能登という雑誌のカメランのことが載ってた」とのこと。松田咲香さん。
天真庵のHPには、「能登」という雑誌に紹介された時の記事がリンクしてある。
3年ほど前の冬。初雪がふる志賀町の我が家に松田さんがカメラを抱えてやってきた。家に飾ってある輪島塗や陶器や、絵などを
熱心に説明を聞いたうえで、真剣にシャッターを切っていた映像が脳裏に焼き付いている。「冬の日本海で焙煎する写真を」
に応えて、ねこ(一輪車)に七輪と焙煎機を積んで運んだ記憶も新しい。

彼女の家は、珠洲にあって、地震と津波で泥だらけになって、カメラ5台と10万枚以上の写真を
保存したハードディスクも壊れた。隣の家の70歳の女性は津波でなくなった。
「すこしずつ笑顔の写真が撮れたらいい」と、また知人にもらったカメラで、今の能登を
撮りはじめた。そんな内容の記事だった。

「能登はやさしや土までも」
自然によりそい、縄文人的な生き方を当たり前のように継承している能登人の笑顔を撮り続けるカメラマン。
「能登」の初年号は休刊する、と編集長からメールが届いた。先が見通せないような現状だけど、
またこの素晴らしい雑誌が復興することをこころから願っている。もちろん能登の人たちのやさしい笑顔とともに。感謝。